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第五話 解答要求!

 部屋の中で一人、溜息を吐く。
俺はなんて馬鹿な奴だと、つくづく思う。
 小川の彼女は元々うちと同じ高校で、家庭の事情で去年に転校したらしい。
そしてその彼女は、絹子達が所属していた演劇部の部長だったそうだ。
転校間際に小川が告白して、遠距離での恋愛に至ったらしい。
 ……そんな二人を、絹子はどんな気持ちで見ていたんだろう。

「あぁ〜……」

 声を漏らして頭を抱える。
どうして、絹子の事を考えてしまうんだ。
どうして、あれだけ別れたいと思った風喜を、可愛いと思ってしまったんだ。
決断出来ないで、どっちつかずな男にだけはなりたくなかった。
なりたくなかったのに。

「信太、お勉強は進んでる?」

 ノックの音がした直後に、母さんが入ってきた。近くのコンビニで、俺にジュースを買ってきてくれたらしい。
無理は禁物だと優しく諭してくれたけど、勉強どころじゃない。
 ふとある事に気付いて、俺はつい声をかけてしまった。

「母さん」
「何?」

 ――何でこの時期に再婚なんてしたの?
その言葉が出かかって、呑みこんだ。
 あと数か月で大学受験なのに、彼女が居る俺を女所帯に住まわせるって、分かってた筈なのに。
だけど、母さんは俺を女手一つで育ててくれて、何より愛してくれてて。俺が嫌に思った時だってあった筈なのに。
そんな恩人に、こんな文句のような質問は出来なかった。したくなかった。
 だから

「俺、高校卒業したら、一人暮らしがしたい」

はっきりと、俺は母さんにそう伝えた。
何て事は無い。気に入らないなら、自分が出て行けばいい話だ。
離れれば絹子の事だって考える事も無くなるだろうし、風喜とは志望先が違うから何も言わず連絡手段を断ち切ればいい。
それならきっと、母さんの迷惑にもならない筈だ。
 そう考えていた矢先――

バシッ!

視界が突然、大きく揺らいだ。
 何が起こったか理解出来ないまま、俺は床に頭を打ち付けてしまった。
叩かれた? 母さんに? 何で? 何が気に障ったんだ?

「か、母さん?」

 未だに状況を整理出来ないまま、俺は母さんの方を見た。
今まで一番好きだっただろうその女性は、見るのもおぞましい表情でこっちを睨んでいた。

「あんた、何処まで私を恐がらせたら気が済むの? 何処まで私を苦しめるの!?」

 そう怒鳴ると、母さんは俺の胸倉を掴んで思い切り揺さぶった。
脳が揺れる。まだ何か怒鳴ってるけど、頭に入って来ない。
 一体俺の何が、母さんをここまで怒らせた?

「明美さん!」

 その後でようやく耳に届いたのは、絹子の声だった。
怒り狂った母さんを抱きしめるかのように、その体を押さえつけていた。

「……絹子ちゃん?」

 ようやく我に返った母さんは、自分のした事に気付いてどんどん青ざめていった。
母さんの怒りが治まったと分かって、絹子もその手を放した。

「ごめ、ごめんなさいね。私ったら……」

 無理に笑顔を作った母さんの声は、震えていた。
そして、台所を片付けなきゃと言って、母さんは俺の部屋から出て行った。

「吃驚したぁ。母さんが化けて出たのかと思った」

 それから最初に口を開いたのは、長い溜息を吐いた絹子だった。
苦笑しながらそんな冗談を言う割には、絹子の手は小さく震えている。恐かったんだろう。
でも、それでも絹子は、俺を助けようとしてくれた。

「……絹子」

 俺は立ち上がって、その細い指が折れないようにそっと握った。
途端に絹子はさっと顔を赤らめて、手を引こうとするけれど、俺は放さなかった。放しちゃ駄目だと思った。

「……ごめんな。俺、情けないよな」

 真っ赤な顔のまま、絹子は俺が何を言っているのか全く理解出来ないという表情をしている。
でも、これだけは伝えなきゃ。絹子も、風喜も、これ以上苦しめないように。

「俺、風喜と別れるよ。あいつが駄目なんじゃなくて、俺が弱いから」

 そう聞いた途端、絹子は落ち着いた表情になった。
それから昨日してくれたように、俺の頭を優しく撫でるとこう言ってくれた。

「信太は弱くない。唯ちょっと、年頃の女の子の扱いを分かってないだけ」
「……自分がそうじゃないみたいに言うなよな」

 優しく笑う絹子に、俺はついそう突っ込んでしまった。
 未だによく分からない。俺は絹子が、好きなのかな?
答えが出ないのは、もどかしい。だけど、答えが出かかると、恐ろしくも思う。


* * *


 突然聞こえた怒声に、私は戸惑いを隠せなかった。本当に、死んだ母さんにそっくりだった。
そりゃあ、どんな親も怒ったら恐いんだろうけど、自分の親と重なって見えるなんて、そうそう無い筈だ。
 ……って言うか、さっきの信太のアレは一体何だったんだろう。いきなり悟り開いた様な態度になるんだもん。吃驚するよ。

「……はぁ」

 部屋の中で、私はまた溜息を吐いた。
本当ならもう少し信太と話すべきなんだろう。分かってはいる。でも気まずいし、あいつは先生と話した時のように、本心を言おうとはしないだろう。
どうしよう。どうするべきなんだろう……。嗚呼、早く姉ちゃん達帰って来ないかなぁ……。

「ん?」

 ふと、携帯が震えているのに気付いてそっちに顔を向ける。
着信相手を見て、途端に私の悩みが吹っ飛んだ気分になった。そしてすかさず通話ボタンを押して携帯を耳に当てる。

「はっちゃん、久しぶり!」
「もしもし、キヌちゃん元気?」

 電話の相手は、さっき信太にも話した小川君の彼女、八谷優美ちゃんだった。
家庭の事情で転校したらしいけど、転校先も住所も分からないまま、彼女の携帯も置いて行ってしまったらしく、小川君ですら全く知らない。
だから、はっちゃんが公衆電話からかけてくるこの電話が、唯一話せる機会なのだ。

「私は全然元気! はっちゃんこそどうよ?」
「うん、色々あるけど何とかね」

 見えてないのに、つい何度も首を縦に振ってしまう。本当に、元気そうで何よりだ。
 はっちゃんがまだうちの高校に居た頃、彼女は自分の父親の愚痴をよく零していた。聞いている自分でも、その父親は異常だと思っていた。
だから、いきなりはっちゃんが居なくなった理由は察しがつくし、傷を抉るような事はしたくない。本当は会いたいし、メールとかもしたいんだけど……。

「ところで、さっきまで幸信君と電話してたんだけどね?」
「え!? あ、うん!」

 突然、はっちゃんが小川君の名前を出すもんだから、つい声を上げてしまった。
いや、彼女なんだから当たり前なんだけど! 今日は色々はっちゃんに対してかなり後ろめたい事があるし……。
ってゆーか小川君、今日の事はっちゃんに話したりとかしてないよね!?

「キヌちゃん、何か困ってる事あるの?」
「へ?」

 と思いきや、はっちゃんが訊いてきたのは何のこっちゃと訊き返したくなるような質問だった。

「困ってるって?」
「幸信君がね、キヌちゃんが他の男友達と喧嘩してから、ずっと様子がおかしいんだって言ってたの」

 ……あーなるほど、そういう事。小川君、本っ当ーに優しいなぁ。あんな良い男なら、胸を張ってはっちゃんを嫁にやれる。
なんて馬鹿げた事を考えてしまうのは、きっと現実逃避なんだろう……。

「何か話しづらい事があるなら、私もうあの高校に居ないし、何なら幸信君にも内緒にしておくからさ!」

 そこまで言われて、私は自分が本当に友達に恵まれてる事を実感した。
きっと会いたいのははっちゃんも同じだろうし、見知らぬ場所に一人で居るのは、本当に辛いと思う。
それでも彼女は、他にも相談相手が居て、全然一人じゃない私を心配してくれている。優しい子だ。本当に。

「……あのね、私……」

 來音ちゃんにだけ話すと決めていた事を、私は全部はっちゃんに打ち明けた。
聞いてくれてるはっちゃんの相槌が、だんだん沈んでいくのが分かった。

「そりゃあキツイわ……。下手したら私んとこより複雑じゃない?」
「んー……、どうなんだろ?」

 そう言われても、私ははっちゃんの現状を詳しく知らないので、そう返すしかなかった。
まぁそりゃあ父さんは直前になって私に報告してきたし、あんまり家事しないって聞いてた明美さんは毎日ご飯やお弁当作ってくれるし、変っちゃあ変なんだけど……。

「キヌちゃんの親御さんさぁ、本当に再婚してるの?」
「はぇっ!?」

 突拍子も無くそんな事を言われ、私は戸惑わずにはいられなかった。
質問の意味が、全く分かっていない。だって普通、再婚してなきゃ同居しないじゃん? あれ、普通って何だっけ?

「お姉さんはどう? 何かその事で詳しく知ってる?」
「え、う〜ん……多分知らないんじゃない?」
「ちゃんと聞いた?」
「……聞いてない」

 普段のはっちゃんは、もう少し大人しくて、美香ちゃん同様ふわふわしてる感じなんだけど……、今日は本当にどうしたんだろう?
はっちゃんに押されるがままに、混乱しながら何とか答えてみせるけど、電話を切る間際になって、はっちゃんはとんでもない事を言い残した。

「いい、キヌちゃん? お父さんが帰ってきたら、その再婚の話詳しく聞きなさいね!」
「え!? ちょ、待ってよ! はっちゃん!!」

 私が返す間も与えず、携帯からは「つーつー」という無機質な音しか聞こえなくなってしまった。
終電ボタンを押して、私は本日最大級の溜息を吐いて項垂れた。

「どーゆー事だってばよ……」

 そんな独り言を漏らしながら、意味も無くカーテンを開けて、窓の外を眺める。
 コンビニの電灯と、立ち並んだ居酒屋ビルのネオンで、日が暮れたにも関わらず明るい。
母さんが死ぬ三ヶ月前にこのマンションに引っ越すまでは、想像できない風景だった。同じ市内だとは思えない程だ。

「……?」

 ふと、コンビニの前に佇む人影に目をやる。入口付近で屯している不良共とは違う、何か異様な雰囲気を感じた。

「――!!」

 咄嗟に、私はカーテンを閉めた。隠れるようにベッドに潜り込んで、息を整えることに専念する。
 まさか、そんなまさか。有り得ない。だって私は、引っ越した場所の事は演劇部のメンバーにしか言ってない!


* * *


 夜が明けて、セットしていた目覚まし時計が鳴り響き始めた。
いつもは耳障りだとすぐに止めるが、不思議と今朝は、清々しく起床が出来た。

「おはよう、母さん」

 台所に出て、朝食を作ってる母さんに話しかける。でも母さんは一回もこっちを見ないで、挨拶だけ返した。
昨日の今日だから、きっと気まずいんだろう。それにしても、何故母さんはあの時あんなに怒ったんだ……?

「あの、明美さん……」

 それを聞こうとして、部屋から出て来た郷重さんに遮られてしまった。
郷重さんの方から俺達に話しかけるなんて、今の今まで殆ど無かったから、俺も母さんも少しだけ驚いた。

「おはよう、郷重ちゃん。どうしたの?」
「え、と……」

 いつも通り振る舞う母さんに、郷重さんは竦み上がって、言いづらそうに目を逸らす。
対人恐怖症と絹子から聞いているから、唯単に俺達に怯えてるだけなんだろうけど……、何処か後ろめたそうにも見えるのは俺だけか?

「き、絹子が……、気分が良くないみたいで……」
「え?」

 郷重さんの言葉に、思わず耳を疑った。絹子が体調不良? 昨日はそんな風には見えなかったぞ?
ちらと母さんの方に目をやると、少し顔が青くなっていた。昨日の事が原因かも知れない。そう思ったんだろう。

「じゃあ、今日は休ませてあげた方がいいかもね。あの子はもう進路が決まってる訳だし……」

 無理に笑顔を作ってそう言う母さんに、郷重さんは蚊の鳴く様な返事をした。
 妙だ。直感的に、俺はそう思った。
何が妙なのかまでは分からないが、昨日の絹子は、本当に何処も悪そうには見えなかった。

「母さん、俺も休んでいいかな?」
「はぁ?」

 絹子の様子が気になって、母さんにそう頼んでみたものの、その返事は別の方向から来た。

「信太君はまだ受験生でしょ? 絹子はもう就職試験受かったからいいけど、貴方はまだこれからでしょ?
 今日一日休んで、その日の勉強は取り戻せるの? 善人気取りで絹子に近付くのやめてくれる?」

 さっきまでの怯えた態度は何処へ行ったのか、郷重さんは痛い所を的確に、言葉という刃で突いてきた。
俺の事をちゃんと考えてくれた上での叱咤にも聞こえるが、恐らく一番最後に言ったのが郷重さんの本音だろう。分かってはいたが、完全に彼女に嫌われている。
生ゴミに集る蠅でも見ているような目つきで睨む郷重さんに、俺は一言謝って、仕方無く家を出る事にした。

「……ん?」

 自転車で通学路の坂を上っていると、いつもと少し違う風景が見えた。俺が向かう先で、男女が諍い合っているようだ。
その姿がはっきりと分かるごとに、俺の目も見開いていった。フードを目深に被った黒いパーカーの男に突っかかられてるのは、仕事で先に家を出た麻弥子さんだった。

「麻弥子さんッ!!」

 全速力で自転車を走らせて、俺はそのままその男に突進した。意外に細身だった男は軽々と吹っ飛び、道路を転がっていった。
そしてぽかんと口を開けていた麻弥子さんを、後ろに乗るように促して、男が起き上がる前にその場から全速力で離れた。

「ありがと。信太君カッコ良かったよ〜! まぁ、来なくても普通に警察呼んだけど」

 最寄りの駅まで自転車を走らせたところで、麻弥子さんが降りた直後にそう言った。
彼女は郷重さんや絹子と違って、本当に堂々としている。あんな目に遭ったにも関わらず、怯えている様子は全く見られない。

「あいつ、何だったんですか?」
「さぁ?」
「さぁって……」

 一先ず一番に気になった事を聞いてみたけど、あっさりとそう返されて思わず肩をすくめた。
でもよく考えてみると、本当に顔も知らない、只の痴漢だったのかも知れない。そう思い直したところで、麻弥子さんは更に気になる言葉を残して行った。

「顔は知らないけど、絹子が今日学校行きたくないって言ったのも、私達にまで仕事を休むように言ったのも、あいつの所為かもね」

 その言葉の真意を問うより先に、麻弥子さんは足早に改札を抜けてしまった。


* * *


「母さん、着物着てどうしたの? 何処かへ出掛けるの?」

 今見ている光景が夢だと分かったのは、目の前に居るその人が、もう既にこの世に居ない人である事を受け入れてしまっていたからだろう。
中学生の頃の記憶だっただろうか。大好きな着物を着てご機嫌な母さんは、にこやかに残酷な言葉を放ったのだ。

「今度の放射線治療でね、お母さんの髪の毛が抜けていくんだって。だからまだ抜けない内に、麻弥子に遺影を撮ってもらおうと思って」

 久しぶりに母さんの笑顔が見れて嬉しかったのに、それが全部別の何かに押し潰されたような感じがした。
 母さんの癌は、最初は私が小学三年生の頃に、左の乳房から検出された。
当時はそれを切除することで快復したけど、月日が経って癌細胞は、母さんの頭に転移していた。
 思えばこの頃だっただろうか、かかりつけの医者が母さんに余命を告げたのは。
そして母さんは三年後、医者の宣告通りに――

「母さん」

 生命維持機に繋がれて、無理矢理呼吸をさせられているような状態でベッドに横たわっていたその人は、既に瞳孔が開き切ってしまっていた。

「そういうの、やめてくれない? 来年は公務員試験があるから、勉強に集中してたいんだけど」

それでも受け入れたくなくて、きっと起き上がってくれるって信じたくて。
 自分の両手で擦ってでも、その手の温もりを取り戻して欲しくて。そしていつものように、その手で私を抱きしめて、優しく頭を撫でて欲しくて。

「もう一年の辛抱だからさぁ、お願いだよ。こういう時ぐらい私の我儘聞いてよ!」

 どれだけ泣き言を言っても返事は無くて、唯機械の作る空気と電子の音が部屋に響くばっかりで。

「公務員になったらさ……、私もお金出すよ? 父さんやお姉ちゃん達と一緒に……、どんなに高くっても……」

 まだ何の恩返しもしていない。せめて私にかけた分のお金ぐらいは、ちゃんと母さん自身に返してあげたい。
 そう言った途端、呼ばれたかのように父さんとお姉ちゃん達が入ってきた。
看護師さんも一緒になって来た。その人はたった今、母さんに繋げていた心電図が0を示したと、私に告げに来たのだった。
 私の切望をまるで嘲笑うかのように、17時49分、母さんは逝ってしまった。

「絹子?」

 呼ばれたような気がして、私は目を覚ました。辛い夢だった。

「風邪引いたのか? 大丈夫か?」

 目を向けると、父さんがスポーツドリンクを持って私の顔を覗き込んでいた。私の為に、仕事を休んでくれたらしい。

「うん、ありがとう……」

 起き上がって、苦笑してみせる。何処も悪くないのに学校を休んだから、少しだけ罪悪感がある。
スポーツドリンクを貰って、一口飲んで蓋を閉める。時計を見ると、もうお昼はとっくに過ぎていた。

「父さん」
「ん?」

 昨日家の前に居た、あいつの事を話そうか。そう思って私は部屋を出ようとした父さんを呼び止めた。
でもよく考えたら、父さんはあいつの事を知らない。それにまだあいつと決まった訳じゃないのに、下手に騒いで警察沙汰になるのも恐い。
出かかった言葉を飲み込もうとして、昨日はっちゃんが私に言った事を思い出した。

「父さんと明美さん、本当に再婚してるの?」

 寸の間父さんは目を見開いて、諦めた様な顔で笑った。

「お前にだけはもう少し、後になってから話したかったんだけどなぁ……」
「父さん!」

 その言葉を聞いて、私は叫ばずにはいられなかった。
何で? 何でそんな事黙ってたの? お姉ちゃん達は知ってたの? 私は除者にされてたの?
 一息吐いて決心した様子の父さんは、さっきの夢の所為で涙腺が脆くなってしまっている私の横に腰を下ろして、まず最初にこう言った。

「絹子、お前はお母さんの、最期の言葉を覚えてるか?」


* * *


「ねぇ、もう待たなくていいって、どういうこと?」

 学校の駐輪場に着いたところで、俺を待っていた風喜にそう伝えると、風喜は訝しげな表情で訊いてきた。
答えるまでもない筈だ。口では言わず、目でそう訴えると、風喜は悲しげな表情に変わった。

「……どうしても、私と別れたいの?」

そう訊く風喜の目から、涙が溜まり始める。
いつもなら「面倒臭い」と思って溜息を吐いてたけど、今は全くそんな感情が起きなかった。
朝起きた時から、否、恐らく昨夜のあの時から、憑き物か何かが落ちたような感覚になっていた。

「だってさ、お前俺と居てて辛そうじゃん」

 途端に、風喜の目が大きく見開かれる。俺自身、自分の口からそんな言葉が出るとは思わなかった。
けど事実、俺の隣に居る時の風喜は、お世辞にも幸せそうには見えなかった。付き合い始めたばかりの頃より、笑わなくなってしまっていた。

「別れたくないって言うけど、お前は俺の何処が好きなんだよ? 俺はお前と別れたい理由を沢山言ったけど、お前から別れたくない理由は一つも聞いてない」

 風喜の目を見て、俺は別れたくないという彼女の真意を問う。すると風喜は顔を青くして、俺から目を逸らした。
威勢が無くなったように見えるが、予想通りの反応だった。俺と別れたくない理由を、何となく察していたからだ。
 風喜は、自分が可愛いという自覚があり、それが自慢なのだ。
これは絹子にも話したし、絹子も今まで口に出さないようにしていたらしいが、「そんな気はした」と同意していた。
恐らく風喜の中で、“可愛い女子”であることを証明する為の必須アイテムが、俺という“彼氏”なのだろう。
だから相手がどれだけ嫌がろうとも、手放す気は無いのだ。
俺がどう思おうとも、風喜は俺と向き合う心算は一切無いのだ。

「好きだから、じゃ……駄目?」

 目を逸らしたまま、そこに涙を溜めて、蚊の鳴く様な声で風喜は言う。
けど、俺が最初に訊いた「何処が」の部分には、全く触れてない。それが少しだけ、悲しかった。
 ふと、付き合い始めたばかりの記憶が甦る。
あの時の俺は、確かに風喜が好きだった。風喜が可愛いと思っていた。
その綺麗な顔で、ずっと笑ってくれていたら、きっとこうはならなかったかも知れない。
陰で誰を口汚く罵ろうが、俺の意見を真っ向から否定しようが、聞き流せたかも知れない。
でも、そうはならなかった。なれなかった。

「風喜、可愛いんだからさ、俺よりもずっと良い奴が居るよ」

 零れかけた涙を拭って、今までの俺からではきっと思いもしなかったであろう言葉で、風喜を宥めた。
 なぁ風喜、お前の言う“好き”って言葉は、俺に宛てたものじゃなくて、俺という彼氏を持ってるお前自身への言葉だろう?
そう言うと、きっとお前は否定するんだろうけど、分かるんだよ。
風喜が好きだったから。ずっと隣で、お前を見てたから。
だから分かる。お前が見てるのは、見てたいのは、俺じゃない。お前自身だ。

「……ごめんな」

 そう囁いた俺自身の声も、潰れそうなひ弱な声になってしまっていた。
すると我に返った風喜は、涙を拭っていた俺の手を弾き飛ばし、睨みつけた。

「もう話しかけないで」

そう吐き捨てて踵を返すと、風喜は足早に校舎へと姿を消していった。
 凩が落ち葉を転がし、カサカサと寂しい音を立てて散らばっていく。
 別れ話を持ちかけたのは俺の方なのに、これだとまるで俺が振られたようだ。
そんな呑気な感想が頭を過ったが、プライドの高い風喜の事だ。そう見せる心算でああしたんだろう。
いつもなら清々したと大きく溜息を吐くのだろうが、心の中がやけに虚しくなったような、何処か寂しいような感覚がして、俺は風喜に弾かれた目を見つめていた。
 その時――

「――っ!?」

背中に悪寒が走り、俺は後ろを振り返った。
他の生徒達が入って来る校門の端で、俺が行きしなに轢き飛ばしたフードの男が、明らかに俺の方を睨みつけていた。
先程の事を恨んでいるのか、少し厄介なものに目をつけられてしまったような気がして、どうにも気味が悪い。
校内にまで入る心算はないようだったが、俺は逃げるように校舎の中へと駆けていった。


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